立ってる者は親でも使え?若者よ、自分で調べろ
2008年4月15日 エッセイずっとこの日記から遠ざかっていたので
字数制限があったことを忘れていました。
愛あるあまり昨日は書きすぎ
思いっきり後半は切れてしまいましたが
書き直す気力がないので絵だけ追加UPします(苦笑)
話は変わりますが、
趣味でほそぼそやっている動画サイトに、日本の方のみならず
外国の方からもコメントを頂き感激することが多いのですが
ちょっと切れた事例を。
人のアカウントにコメントする際に
挨拶なしもいらつくが
いきなり
「〜っていったい何なの?」
というコメントを付けられたら切れます。
てめえで調べろと。
しかし、人のことはいえないかもしれない。
我が子も時々
今日って何曜日?
今日って何日?
今何の番組やってるの?
と当然のように聞いてくるので
そういうときは「さぁね、自分で調べろ」
と言うんですが、
そのときの反応はかなり不満たらたら。
きっと、学校でも先生に同じことをしているに違いない。
人から聞いた情報はすぐ忘れる。
その人にまた聞けばいいと脳が判断するからだ。
一方、疑問に思う→自分で調べる→書き留める
というステップを踏んだ知識はなかなか忘れない。
単語帳に拾い出した単語を書いたときの自分、
辞書で調べたときの自分、
工夫してカテゴリ分けしたときの自分を覚えているからだ。
いい大人でも、何でも人に聞く性質の人はいる。
本当にいらつくのだが、
道から時間から、とにかく人から根掘り葉掘り情報を聞き出し
自分の労力を省こうとしている。
で、情報の出所に責任を負わせるのだから
たまったもんじゃない。
何でもPCで調べられる時代というのは
自分の脳に収納すべき論理的メモリを
外付けしているということ。
脳内で活用しているのは感覚と感情を司る右脳だけじゃぁ
衝動的に虚無感に見舞われるのも当然だと思う。
試行錯誤を繰り返して、一見無駄なことをしているようでも
その人の経験値は自ずと上がっているのだ。
そこでまず、自分の子に言おうと思う。
「あんたの辞書、キレイすぎね?」
字数制限があったことを忘れていました。
愛あるあまり昨日は書きすぎ
思いっきり後半は切れてしまいましたが
書き直す気力がないので絵だけ追加UPします(苦笑)
話は変わりますが、
趣味でほそぼそやっている動画サイトに、日本の方のみならず
外国の方からもコメントを頂き感激することが多いのですが
ちょっと切れた事例を。
人のアカウントにコメントする際に
挨拶なしもいらつくが
いきなり
「〜っていったい何なの?」
というコメントを付けられたら切れます。
てめえで調べろと。
しかし、人のことはいえないかもしれない。
我が子も時々
今日って何曜日?
今日って何日?
今何の番組やってるの?
と当然のように聞いてくるので
そういうときは「さぁね、自分で調べろ」
と言うんですが、
そのときの反応はかなり不満たらたら。
きっと、学校でも先生に同じことをしているに違いない。
人から聞いた情報はすぐ忘れる。
その人にまた聞けばいいと脳が判断するからだ。
一方、疑問に思う→自分で調べる→書き留める
というステップを踏んだ知識はなかなか忘れない。
単語帳に拾い出した単語を書いたときの自分、
辞書で調べたときの自分、
工夫してカテゴリ分けしたときの自分を覚えているからだ。
いい大人でも、何でも人に聞く性質の人はいる。
本当にいらつくのだが、
道から時間から、とにかく人から根掘り葉掘り情報を聞き出し
自分の労力を省こうとしている。
で、情報の出所に責任を負わせるのだから
たまったもんじゃない。
何でもPCで調べられる時代というのは
自分の脳に収納すべき論理的メモリを
外付けしているということ。
脳内で活用しているのは感覚と感情を司る右脳だけじゃぁ
衝動的に虚無感に見舞われるのも当然だと思う。
試行錯誤を繰り返して、一見無駄なことをしているようでも
その人の経験値は自ずと上がっているのだ。
そこでまず、自分の子に言おうと思う。
「あんたの辞書、キレイすぎね?」
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