人間は論理的にものを考えられる唯一の生き物だ。
それは間違いないと思う。
でも、理にかなった行動を始終出来るかと言ったら否だ。
一日の自分の行動を思い起こしてみても、
ひとつひとつ論理的に筋道のたつ行動がどれだけあるだろうか。
もしも、特定の時刻に何を、何のためにしてどういう結果がもたらされたかを説明しろと言われたら非常に難しいと思う。
人間の記憶というものは非常に曖昧なものなのだ。
この映画では現実に起こった、未解決連続猟奇殺人がモチーフになっているが、
時代背景のせいもあると思うけれど、ある種の「思いこみ」がこの事件を二重・三重に謎を複雑にしてしまっている。
ソ・ガンホ演じる村の超・現場主義刑事には、自分の長年の「勘」による思いこみがある。
キム・サンギョン演じる若い刑事は今で言うプロファイリングによる論理的思考に頼りすぎた思いこみがある。
このふたりが犯人だと確信した工場勤めの男を尋問する場面で
犯行の日に必ず同じ曲をラジオ局にリクエストすることや
最後の犯行の日、ラジオ番組を聞いていたなら最後に流れていた曲を覚えているはずだと迫るシーンがあるが、
それも思いこみだ。
自分のリクエストした曲以外に興味などあるかどうか。
怪しいものである。
また、そんなにわかりやすく同じパターンで犯罪を繰り返すだろうかとも思う。
事件の起きた「村」という社会も独特だし
人々の行動や思考も、都市部の人々のように明確ではない。
「スリーピーホロウ」でイカボードは、何でも科学の力で証明できると息巻いてスリーピーホロウにやってくるが、科学はオカルトな世界に負けて物語は終わっている。
それに似て、この物語も、両極端にいた両刑事が
お互いのやり方に折り合いをつけると言うよりは、
常人とサイコの境が非常に曖昧になっていくように
お互いの精神世界に近づいていく。
そして、科学捜査の出した結論は残酷。
十数年後、現場を通りかかった少女の口から信じられないようなことを聞かされて物語は終わっている。
異常と、ノーマルは紙一重。
微妙なバランスのなかにわたしたちは常に、いるのだ。
それは間違いないと思う。
でも、理にかなった行動を始終出来るかと言ったら否だ。
一日の自分の行動を思い起こしてみても、
ひとつひとつ論理的に筋道のたつ行動がどれだけあるだろうか。
もしも、特定の時刻に何を、何のためにしてどういう結果がもたらされたかを説明しろと言われたら非常に難しいと思う。
人間の記憶というものは非常に曖昧なものなのだ。
この映画では現実に起こった、未解決連続猟奇殺人がモチーフになっているが、
時代背景のせいもあると思うけれど、ある種の「思いこみ」がこの事件を二重・三重に謎を複雑にしてしまっている。
ソ・ガンホ演じる村の超・現場主義刑事には、自分の長年の「勘」による思いこみがある。
キム・サンギョン演じる若い刑事は今で言うプロファイリングによる論理的思考に頼りすぎた思いこみがある。
このふたりが犯人だと確信した工場勤めの男を尋問する場面で
犯行の日に必ず同じ曲をラジオ局にリクエストすることや
最後の犯行の日、ラジオ番組を聞いていたなら最後に流れていた曲を覚えているはずだと迫るシーンがあるが、
それも思いこみだ。
自分のリクエストした曲以外に興味などあるかどうか。
怪しいものである。
また、そんなにわかりやすく同じパターンで犯罪を繰り返すだろうかとも思う。
事件の起きた「村」という社会も独特だし
人々の行動や思考も、都市部の人々のように明確ではない。
「スリーピーホロウ」でイカボードは、何でも科学の力で証明できると息巻いてスリーピーホロウにやってくるが、科学はオカルトな世界に負けて物語は終わっている。
それに似て、この物語も、両極端にいた両刑事が
お互いのやり方に折り合いをつけると言うよりは、
常人とサイコの境が非常に曖昧になっていくように
お互いの精神世界に近づいていく。
そして、科学捜査の出した結論は残酷。
十数年後、現場を通りかかった少女の口から信じられないようなことを聞かされて物語は終わっている。
異常と、ノーマルは紙一重。
微妙なバランスのなかにわたしたちは常に、いるのだ。
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